Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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#Dogen #道元 #正法眼蔵 「無常説法」巻抄訳 2017年9月28日(改定して再掲)「無意識の存在が語る法を聴くことができるのは、無意識の存在である。 無意識の存在が語るものは無意識の存在である。」
永澤 護·2019年3月12日火曜日

以下抄訳開始(原文→訳) ---------------------------------------------------
①原文
「無情界は有情界にまじはれりやいなや。しかあるを、草木瓦礫を認じて無情 とするは不遍學なり。無情を認じて草木瓦礫とするは不參飽なり。
無情説法、無情得聞(無情説法は無情聞くことを得)。無情所説無情なり、無情説法即無情なるがゆゑに。しかあればすなはち、無情説法なり、 説法無情なり。
身心の際限、みづからあきらめつくすことをえざるなり。聞法功徳の、身心の田地に下種する、くつる時節あらず。つひに生長ときとともにして、果成必然なるものなり。
無情は爲無情説法なり、喚什麼作無情。しるべし、聽無情説法者是なり。喚什麼作説法。しるべし、不知吾無情者是なり。」
②試訳
「無意識の存在(無情)の世界は、意識ある存在(有情)の世界と入り混じっている。であれば、草木や瓦礫をもって無意識の存在とのみするのは、まだ十分学んでいないとしなければならない。また、無意識の存在とは草木や瓦礫だとのみいうのは、まだ不十分だといわねばならない。
無意識の存在が語る法を聴くことができるのは、無意識の存在である。 無意識の存在が語るものは無意識の存在である。無意識の存在が語ること(法)がとりもなおさず無意識の存在だからである。すなわち、無意識の存在が「法(dharma)を語ること」なのであり、「法を語ること」は無意識の存在なのである。
心身がなし得ることの限界は、自らの力では知ることはできない。法を聴くことの力が、いま心身という田畑に種をまくとき、その朽ちる時はない。やがて時とともに育ち、かならずその果を結ぶことになる。
無意識の存在は無意識の存在のために法を語る。では、なにを呼んで無意識の存在となすのか。それは、無意識の存在の語り(無情説法)を聴くものがそれである。では、なにを呼んで法を語ることとするのか。それは自らが無意識の存在だと知らないものがそれである。」

――道元『正法眼蔵』「無情説法」 -----------------------------------------------以上抄訳終了
以下上記の補足説明:
 すなわち無意識の存在の語りを語り、その語りを聴くというありかたこそが、自らが無意識の存在だと知らないもののありかたなのである。その「ありかた」は、「法を語ること」と異なることではない。それらは同じ事態であり、同じ出来事の過程である。
 無意識の存在(無情)の世界は、意識ある存在(有情)の世界と入り混じっており、そこには何らかの二つの領域または「二世界」に分割する線はない。また「人間」こそ、「自らが無意識の存在だと知らないもの」である。すなわち、「一切衆生」は有情も無情も包括する。

再投稿 道元 #正法眼蔵 「無常説法」巻抄訳 #精神分析 #ラカン
永澤 護·2017年9月28日木曜日·1分前表示4件
以下抄訳開始(原文→訳)
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「無情界は有情界にまじはれりやいなや。しかあるを、草木瓦礫を認じて無情 とするは不遍學なり。無情を認じて草木瓦礫とするは不參飽なり。
無意識の存在(無情)の世界は、意識ある存在(有情)の世界と入り混じっている。であれば、草木や瓦礫をもって無意識の存在とのみするのは、まだ十分学んでいないとしなければならない。また、無意識の存在とは草木や瓦礫だとのみいうのは、まだ不十分だといわねばならない。 
無情説法、無情得聞(無情説 法は無情聞くことを得)。
無意識の存在が語る法を聴くことができるのは、無意識の存在である。
無情所説無情なり、無情説法即無情なるがゆゑに。しかあればすなはち、無情説法なり、 説法無情 なり。
無意識の存在が語るものは無意識の存在である。無意識の存在が語ること(法)がとりもなおさず無意識の存在だからである。すなわち、無意識の存在が「法(dharma)を語ること」なのであり、「法を語ること」は無意識の存在なのである。
身心の際限、みづからあきらめつくすことをえざるなり。聞法功徳の、身心の田地に下種する、くつる時節あらず。つひに生長ときとともにして、果成必然なるものなり。
心身がなし得ることの限界は、自らの力では知ることはできない。法を聴くことの力が、いま心身という田畑に種をまくとき、その朽ちる時はない。やがて時とともに育ち、かならずその果を結ぶことになる。
無情は爲無情説法なり、喚什麼作無情。しるべし、聽無情説法者是なり。喚什麼作説法。しるべし、不知吾無情者是なり。
無意識の存在は無意識の存在のために法を語る。では、なにを呼んで無意識の存在となすのか。それは、無意識の存在の語り(無情説法)を聴くものがそれである。では、なにを呼んで法を語ることとするのか。それは自らが無意識の存在だと知らないものがそれである。
(すなわち無意識の存在の語りを語り、その語りを聴くというありかたこそが、自らが無意識の存在だと知らないもののありかたなのである。その「ありかた」は、「法を語ること」と異なることではない。それらは同じ事態であり、同じ出来事の過程なのである。)」
――道元『正法眼蔵』「無情説法」
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以上抄訳終了
ここで「無情」とは、「脳」といっても、「身体」といっても、「物」といっても、「自然」といっても、「数式」といっても、「真空(エネルギー)」といっても、「Dブレーン」といっても、あるいは「量子揺らぎ」といっても、さらには「宇宙」といってもいいだろう。そして大切なことは、「無意識の存在(無情)の世界は、意識ある存在(有情)の世界と入り混じっている」のだから、「人間」を含むあらゆる生命体を「無情」と呼んでも差支えない。「人間」こそ、「自らが無意識の存在だと知らないもの」である。すなわち、「一切衆生」は有情も無情も包括する。


善悪は私たちが生きて実践する過程としての時間であり、私たちが生きて実践する過程としての時間を原因として生じる何かなのではない。善悪はそれ自体としては私たちが生きて実践する過程としての現象であるが、その現象を原因として生じる何かなのではない。私たちが生きて実践する過程が等しければ悪も等しい。同様に私たちが生きて実践する過程が等しければ善も等しい。(中略)すでに実現して修行者を待っている善はいまだなく、善をなすまさにその時に到来しない善もない。全ての善は形なきものではあるが、善のなされるところに集まること、磁石のもとに集まる鉄よりも速い。その力は世界の始まりと終わりに吹く旋風よりも強く、大地山河、世界国土、また業の自己増殖力も、決して善の集まることを妨げることはできない。(中略) もろもろの善は、有でも無でも色(現象界の分節・差異)でも空でもない、ただ行為であり実践である。いずれの場、時において実現するとしても、かならず行為であり実践である。この行為・実践にかならずもろもろの善の実現があり、この行為・実践の実現こそが自己の課題(公案)であるが、それは生滅という事態ではなく、何らかの因果性・条件によるものでもなく、行為・実践へと入ること、そこにとどまること、そこから出ることもまた同じである。すでにもろもろの善のなかの一つの善が実践されるところに、いっさいの現象世界・全身・現実の実相がともに実践されるのである。

道元 『正法眼蔵』 「諸悪莫作」
原文:善悪は時なり、時は善悪にあらず。善悪は法なり、法は善悪にあらず。法等・悪等なり、法等・善等なり。(中略)さきより現成して行人をまつ衆善いまだあらず。作善の正当恁麼時、きたらざる衆善なし。万善は無象なりといへども、作善のところに計会すること、磁鉄よりも速疾なり。そのちから、毘嵐風よりもつよきなり。大地山河・世界国土・業増上力、なほ善の計会を罣礙することあたわざるなり。(中略)衆善、有・無・色・空等にあらず、ただ奉行なるのみなり。いずれのところの現成、いずれの時の現成も、かならず奉行なり。この奉行に、かならず衆善の現成あり、奉行の現成、これ公案なりといふとも、生滅にあらず、因縁にあらず。奉行の入・住・出等もまたかくのごとし。衆善のなかの一善、すでに奉行するところに、尽法・全身・真実地等、ともに奉行せらるるなり。
@dharmazeroalpha (https://twitter.com/dharmazeroalpha/status/938000628378345472?s=09)


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